清朝末期、八大関は青島即墨に所属し、即墨の美名は青島よりずっと古く、春秋戦国時代の最も東方の重要な都市だった。20世紀初頭、ドイツが青島を占領した後、この地をドイツ人居住区としたため、青島八大関近代建築の少数はドイツ統治時代(1897年-1914年)に建てられたが、そのほとんどは1930年代に建てられた。
沈鴻烈。18歳の中秀才は日本海軍兵学校に入学し、1911年に帰国し、張作霖、張学良の腹心となり、東北海軍の実際の創始者となった。沈鴻烈氏が青島市長になった間、青島の市政建設に大きな貢献をした。例えば、ロウ山への道を広く整備し、沈鴻烈氏が青島市長を務めていた間、この地域を約10本の道に建設した。いずれも中国古代の軍事関所と命名され、香港西路を縦方向に結ぶ紫荊関路、寧武関路、韶関路、横方向に交わる武勝関路、嘉峪関路、函谷関路、正陽関路、臨淮関路、居庸関路と山海関路は、通称「八大関」と呼ばれている。1937年に青島を撤退(1938年2月に日本が青島を占領)した後、国民政府山東省主席になった。
1930年代から40年代にかけて、ここは外国の青島駐在領事機構及び領事員の駐屯地となり、その中で英国総領事官邸跡地、デンマーク領事官邸跡地及びドイツ・アメリカ両国領事館が使用した別荘はすべて八大関建築の代表的な作品であった。
新中国成立後、青島八大関近代建築別荘は党と国家指導者及び外国元首を接待する重要な場所となり、毛沢東主席も八大関を訪れたことがある。